- 2008年7月25日 23:52
- ライフ
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もうすでに一般的な言葉として定着している感がある「KY(空気読めない)」。
「あいつはKYだ。」
なんていう言葉があちらこちらで飛び交っています。
このような言葉は、実は「俺は空気読めてるけど、あいつは読めていない」と言っているのとほぼ同じだったりします。
つまり、自分が「空気を読める人」であると自分で判断できていることになります。
でも、「自分は空気を読めている」ということを、自分で判断するのってすごい難しいんじゃないかって、最近思いました。
例えば空気が読めない人がいたとして、その人は自分のことを「空気を読める人」であると思っているものとします。
でも、その人は実は空気が読めないので、その人の空気に関する判断は信憑性が低いものとなります。
つまり、その人の「自分は空気を読める人である」という判断は非常に怪しいものとなります。
僕の人生の経験上(たった24年間ですが)、空気を読めない人は、「自分が空気を読めない」ということすら読めていない(わからない)ことが多い気がします。
そうなると、「自分は空気を読める」ということを自分で証明する(判断する)のは非常に難しくなります。
その判断の信憑性は、その人が空気を読めているのか、読めていないのかに依存してしまうからです。
そして、それを判断できないとなると、「自分はKYではない」という前提のもとに成り立っている「あいつはKYだ」という言葉なんて使えないことになります。
「空気読め!」といった似たような言葉にも同じことがいえます。
つまり、「君は空気読めないね」と言われてしまった人や、まわりに空気が読めない人がいて困っている人、空気読めすぎて困っている人 、その他空気を読むことに関して悩んでいる人に対して、「気にするな!」ということを言いたいのです。(自分にも含めて)
空気を読める人・読めない人なんてきっと存在しないんです。
存在しないものについて悩んでも本当に仕方がないです。
自分 or 相手はそういう人なんだ、と割り切って、その上でうまくやっていけるような環境を作っていこうと心がけることが大切なんじゃないでしょうか?
「空気」って、つまりその場の背景・環境を指す言葉だと思うので、人を変えようとするんじゃなくて、空気を変えようとすればいいわけです。
そして多分、人を変えるより空気を変える方が相当楽な気がします。
まぁ、「空気を読める・読めない」の判断は実は自分一人でするのではなくて、まわりにいる人とかその人たちとの関係も含めて総合的に判断することなのかもしれませんが、ここではあえて無視してます。
とりあえず、自分に言い聞かせるために書いてみました。
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